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ここのところ毎日のように高校の必修科目の未履修問題が報道されている。僕の出身校でもそれがあったようだ。僕の時代は、さすがに20年近く前だから大丈夫だ、と思う。僕は共通一次試験最後の年(年齢がバレるな/笑)の学年だが、ちゃんと日本史、世界史両方勉強したし。
確かに高校生(あるいは子供)にとって、勉強することの目的は大学入学のためかもしれない。しかしそれはそれだ。その前に、高校は中学よりも幅広い視野でものを考える力と教養とを身につける場であるべきだし、大学はそれまでに得たものを専門領域として特化していく場であるべきではないのだろうか。 数学には数学独自のものの考え方が存在するし、理科(生物・科学・物理)もそうだ。そして社会では世の中がどうして、あるいはどうやって存立しているのかを知り、考えることができる分野だ。本当に必要なものは瞬間的に詰め込まれた知識、あるいはゲームのような反射的かつ機械的に解答を導きだす方法ではない。ものにはさまざまな考え方が存在し、その中で自分にあった考え方を身につけさせ、そして社会で貢献できるよう導いて行くことが教育本来のあり方だと僕は思う。 きれいごとかもしれない。では本気で現実に対応するように社会が改まるべきだ。現実問題として企業・団体等への就職の際に本当に大卒でなければ務まらないような仕事がどれだけあるのか。実際に社会の場で必要な社会的技術や要領は、概してそれまでの教育の中では教わらないことの方が遥かに多い。大卒の方が高卒や専門学校卒よりも優れているなどという考え方はもはや通用しない。そんなことは実はみんな分かっているはずだ。結局、見栄やムードで日本は動いているのだ。 教養を持つことは、人が人生や社会をより深く洞察するために必要なのだと思う。残念ながら教養のそうした本質を尊ぶ空気が今の日本には希薄だ。何よりもその教養を身につけるための大前提となるべき、常識自体が崩壊しているのだから当然と言えば当然なのだが。僕は夏目漱石の<三四郎>に登場する広田先生の、日本は「亡びるね」というセリフを思い出す。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-31 13:01
| もの思う日々(第1期)
京都国立近代美術館所蔵のものだから、今までに観たものもあるはずだがとりあえず行ってみる。
明治時代以降に日本画に取り組んだ画家たちは大変だっただろうと思う。それは、洋画の技法や思想が輸入されることで、日本画そのものの価値やあり方を問われることになったからだ。洋画は、単に新奇なものではなかった。色彩と光、あるいは線や形の追究が極めて意識的になされており(そこには浮世絵などの影響もあるのだが)、それまでの伝統的かつ無意識的だった日本の絵画とは対極にある存在なのだ。花鳥風月や架空の理想郷を描くことに対して、半ば劣等感にも似た非現実感を抱くことがあったとしても不思議ではない。別の価値観の闖入はそういう状況を作りうる。 もちろん、その状況を踏まえた上で産み出された新しい日本画には素晴らしい作品もたくさんある。僕は決して横山大観なら何でもとは言わないが、今回展示されていた<帰路>は良かった。そして、それよりも好きなのはやっぱり福田平八郎だ。何と言っても<竹>である。デザイン的とも抽象的とも言えるシンプルな絵だが、それでもそこに日本的な風情は漂う。 僕の実家には現代語訳の日本古典文学集のシリーズがあった。そこで良く見かけたのは鏑木清方や安田靫彦の絵だった。今回は安田の源頼朝を描いた<源氏挙兵>があった。顔は神護寺の伝頼朝像そのものだが、確かに僕の頼朝のイメージにダブってくる絵だった。鏑木の方は<たけくらべの美登利>が出ていた。何だか少しなまめかしさを感じてしまった。こうした繊細な線で描かれた人物たちの顔は端正で、静かな佇まいを示す。線の美しい人物画と言えばミュシャを思い出すが、あそこから華麗さを抜いたものだと思えば良い。 一方で、綺麗なだけの絵も多いし、わざわざ洋画のノリで日本画でやってみました、というようなものもある。掛軸や屏風、襖といった伝統的なフォーマットから外れた時の日本画の存在意義に、どれだけ切実なものを画家自身が抱くかどうかで良し悪しが決まるような気がする。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-30 01:47
| もの思う日々(第1期)
ストラヴィンスキーの作品の中でどれか1曲、と言われたら僕は<結婚>を挙げるだろう。<春の祭典>や<ペトルーシュカ>はもちろん大好きな作品だし、<3楽章の交響曲>や<アゴン>だっていい。それでも僕にとっては<結婚>は別格の曲なのだ。
ナマで滅多に聴けないのが本当に残念だが、4台のピアノや多数の打楽器と合唱という変態な(笑)編成もさることながら、リズムが複雑で演奏するにしても難しそうだから仕方がないと思う。ということでCDでしばしば聴くことになる。初めてこの曲に触れた時の自作自演(Sony)では、ピアノにコープランドやバーバー、セッションズ、フォスという豪華なメンツを迎えていたはいいが、肝心の演奏がイマイチだった。しかも英語で歌われると拍子抜けしてしまう。<結婚>の良さを知ったのはブーレーズ(Ades)の演奏だった。こちらはフランス語版だった。妙にまろやかになってしまうのはご愛嬌か。そしてアルゲリッチ、ツィマーマンなどが参加したバーンスタイン(DG)はちゃんとロシア語だったし、しかも素晴らしい演奏だった。アンチェル(Supraphon)も良かった。コシュラー(Praga)もまずまず。直伝のはずのクラフト(現行盤はNaxos)はちょっと。 と、いろいろ聴いてきたが、僕にとって<結婚>の最高の演奏はポクロフスキーens(Nonsuch)だ。CDショップでは民族音楽の棚にあったから、存在にはなかなか気付かなかった。しかし聴いてみると、もうただただ圧倒されるのみ。ピアノのパートは打ち込み、また歌い方は完全に非クラシック音楽的で民族音楽のようだし、かつ楽譜上のダイナミクスをほぼ無視するという「掟破り」な演奏ではあるが、だからこそこの曲の並外れた凄さ、濃さが浮き彫りになる。僕はこの演奏を聴いて<結婚>は<春の祭典>以上の作品だと思うようになった。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-29 02:49
| もの思う日々(第1期)
多分何週か遅れの放送だろう。<タモリ倶楽部>にみうらじゅんが出るという。必見。ただし金曜深夜同時刻の僕の定番は<きらきらアフロ>である。だから<タモリ倶楽部>は録画する。
テーマは「アウトドア般若心経」。 何かと思えば、般若心経に書かれている全ての文字(漢字)278?字を屋外、街角で一文字ずつ写真におさめ、それを繋げる、ということらしい。 あまりの、そしていつもどおりのおバカさ加減が素晴らしい。だいたいバラエティ番組で般若心経をテーマにするというのは、みうらじゅんとタモリとが並ばないと成立しないはずだ。しかも今回の<タモリ倶楽部>では、それが全部揃ったからといって、実際にお坊さん(若いイケメンの副住職だったので「イケジュウ」と呼ばれていた)に読経してもらい、そこに時折写真についての注釈を入れる、という内容なのだ。 多分、経を冒涜したとは見られないだろう。 素晴らし過ぎる。 ある一文字を写真に撮るために日本全国、現地に行くというみうらじゅんのおバカな熱意を、僕は尊敬する。本当に。そして彼が喜々としてカメラを構えている姿を想像するのもまた楽しい。 こういうのを観てしまうと、またスライドショーに行きたくなってしまうなあ。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-28 23:57
| もの思う日々(第1期)
全国的には第2話が放送されたはずだが、大分の地上波では今日(月曜日)が<のだめカンタービレ>初回放送。
いわゆるラヴ・コメディとしては、まあそんなもんなんでしょう。笑い、それなり。原作を知っていると物足りないか。そして案の定、音楽は横に置いとかれる。 もちろん上野樹里が意外に、意外に?ハマっていたのは良かったと思う。楽器をそれほど触らないせいか、玉木宏もまあそれなり。竹中直人は予想どおり。軽部真一の指揮はノーコメント。何故あそこでいきなり第9なのか。西村雅彦は素晴らしい。でも原作の谷岡先生の方が更にお茶目である。 しかし、僕が今回いちばん驚いたのはヴィエラの役をやったのがズデニェク・マーカルだったことだ。パッと見で「あ、マーカル」と分かったのだが、まさか演技までするとは思わなかった。何故なら彼は本職の、チェコ・フィルの指揮者をやるぐらいのレヴェルの指揮者なので。そして、ついでに思ったのは、これは<のだめ>のヨーロッパ編をやらないという前提で作ってるんだろうなあ、ということ。そんなに何日間も撮影で拘束するのは無理だろうから。 総括。期待しないのに見続ける、というのはおかしなことだし、別にツッコミを入れる目的だけで見るつもりも無い。単に気になる、それだけ。ということで次回を待つ。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-24 00:42
| もの思う日々(第1期)
ポスターはひとつのジャンルだと思う。それは肖像画とか風景画とかいう言い方と同じことだ。もともとは宣伝効果を狙うことが主目的だったはずだが、そこに描かれた絵と、本来宣伝文句や会社名などを表しているに過ぎないはずの文字(群)とのバランス構成に新たな美術的価値を見出すことが出来るからだ。
しかしそうした意味合いのものは、19世紀末のヨーロッパが出発点ではない。江戸時代の日本の浮世絵を思い出せば分かる。ブロマイドとしての役者絵や、店の看板娘を描いた美人画、例えば<東海道五十三次>のような観光案内など、それらは単に芸術作品としての意味だけで生まれたものではない。そしてこの浮世絵のデザインが19世紀末のヨーロッパに大きな影響を与えることになる。 ロートレックのポスターを観る。大胆な省略、デフォルメ、主題から意図的にずれた視点など、浮世絵に共通することが多い。もちろんそこには彼独特の感性が炸裂しているからこそ、面白く見られる。もう、よく見知った作品が多いのだが、実物の大きさを目の当たりにすると、当時のパリの街角の華々しさ(多分現在だってそうなのだろうが)が簡単に想像できる。 ロートレックは約30点。あと同時代のさまざまな作家のポスターが並ぶ。プッチーニの<蝶々夫人>のポスター(レオポルド・メトリコヴィッツ)やコクトーの<バレエ・リュス>、バルビエの<サカロフ>など舞台に絡むものの作品はやはり興味深かった。 それからまた浮世絵の話に戻るが、レオネット・カッピエルロの<ルヴェルの雨傘>はもろに浮世絵のノリだ。3人の傘をさした人物(みんな顔は見えない)がS字上に縦に並んでいる。直ぐには思い出せないけれど、それって北斎だよね。 写真を用いたデザインのポスターもいいけれど、やっぱりイラストとかの方が味があるなあと思うことしきりだった。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-20 19:46
| もの思う日々(第1期)
結局「冷血」だったのは誰か。
何故カポーティは<冷血>以降、一作も完成できなかったのか。 「僕と彼とは同じ家に生まれて、彼は裏口から、僕は玄関から出て行った」という台詞には大きな意味がある。カポーティがペリーの処刑を見るということは、カポーティにとって彼自身の半身の死を見るということと同じことだった。傑作を書き、社会的な成功を収めるという功利心丸出しの行動は、ペリーという鏡によって映し出されたのだ。それまで華々しい活動をしてきたカポーティがあの事件のことを書こうと思ったのは、本当に運命だったのかもしれない。 チラシの表面に書かれた「何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む。」という文句が、観終わった後、更に壮絶なものとして僕の心を揺さぶる。 この映画は、サスペンスでもなければ文芸「的」大作ではない。また再現ドラマでもない。単にシリアスな作品である。そして間違いなく優れた作品である。だが、この精神的葛藤と緊張を鋭く描いた作品に対して、あまり多くの言葉を費やして感想を書くのは適当ではないのかもしれない。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-20 00:34
| もの思う日々(第1期)
昨日CDショップで盛り上がらない、と書いたばかりだが、舌の根も乾かないうちに訂正する。
いいのがありました。 タワーのオリジナル企画で、かつてビクターが一生懸命に録音してくれた現代音楽の作品集の初CD化のものが並んでいるではないか。何故か入手困難だった武満徹の<ウィンター>などを含む作品集(指揮:岩城宏之)、1966年と68年に武満と一柳慧の企画で開催された現代音楽祭「オーケストラルスペース」からのライヴ録音集など5枚がそのラインナップ。いやいや、「キターッ!」という感じだったね。そんなところで反応するのもどうかとは思うけど。 有り難いことに1枚1000円。エラいぞ! タワレコ! で、今回は武満の作品集と、リゲティやクセナキスが収録されている<オーケストラル・スペース 1966(Ⅱ)>を購入。武満のことは改めてにして、今日はリゲティとクセナキス。 演奏は小沢征爾、若杉弘の指揮による読響。当時、二人とも30代に入ったばかりのはず。若杉はともかく、小澤にも「現代音楽」をちゃんと(笑)やっていた時代があったんだなあ、と思ったりもする。 リゲティは<アトモスフェール>(指揮:小澤)。1961年作品。これが日本初演である。ダイナミックレンジが広いから録音も非常に難しかっただろう。しかも、ライヴだし、初演だし。そしてオケにとっても厄介な作品だし。音塊(トーンクラスター)の繊細にして華麗な変化を聴かせるためには、ある意味で不純物のような音を可能な限り排除しなければならない。ということで、ガンバったな、とは思うけれど…。 クセナキスも日本初演作品だった<ストラテジー>。戦術という意味である。舞台の左右にオケが分かれて、それぞれに指揮者がつく。予め設定されている音響の組合せによりポイントが決まっており、それをそれぞれの指揮者がどう選ぶかで勝敗が決まる。数学で言うところの「ゲーム理論」を使っているのだそうだ。 もっとも、勝敗は芸術上の優劣そのものではない、と作曲者は言っているらしい。まあ、出てくる音響を体感せよ、ということなのか。いい演奏か?と訊かれたら困る。これは視覚的要素まで入らないと本当には楽しめないのかもしれない。そうでなければ、シュトックハウゼンの<グルッペン>に偶然性という要素を加えて割っただけの作品になってしまう。ナマで観てからでないと、とは思うが、やっぱり僕はクセナキスなら<ノモス・ガンマ>や<ペルセファッサ>とかの方が好きだ。 とか、いろいろ言ってみても、この40年前の「オーケストラル・スペース」という企画自体が、羨ましい。現代音楽、同時代の音楽の存在意義を熱く世に問う。この積極的な姿勢そのものがカッコいいのだ。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-18 02:44
| もの思う日々(第1期)
(文章データ欠落)始!とかいろいろ出ているから、じゃあ、まあとりあえず観ることにするか、と思っていた。
思っていて今日のテレビ欄を見て、大分の現実を思い知らされた(そこまで深刻な話ではないが)。 フジテレビ系の番組は、大分でリアルタイムで見られるものとそうでないものがある。それは大分に民放が3局しかないからだ。ひとつは「激r東京系)を「ほぼ」の割合でカヴァーしている放送局は無いのだ。 かつて<笑っていいとも!>がフジで始まったとき、もちろん大分では同時に放送開始とはならなかった。何年後かは忘れたが、まず夕方(bプが出ていた。それからまたしばらくして、OBSからTOSに放映局が変わった。その時も最初は夕方ではなかっただろうか。 僕が初めて<ニュースステーション>と<プロ野球ニュース>を観たのは、高2の夏休み、当時小倉に住んでいた姉の家に遊びに行った時だった。「こんな面白い番組があるのか!」と軽いカルチャーショック(笑)を受けたものだった。この経験は僕と同世代の大分人ならよく分かるだろう。 僕らぐらいの世代が高校生の時に、大学に入るんなら大分県外に行きたい、と思う理由のひとつに「大分よりも文化度の高い所へ!」というのがあったことは否定できない。当時民放が2局(OBSとTOS)しかなかったし、民放FMもなかった。また、大分(特に大分市内)はケーブルテレビの加入世帯が結構多い、という話を聞いたことがある。それは福岡の放送局の番組がリアルタイムで観られるから、というのが主な理由らしい。 ついでに。高速道路が大分県内に出来たのは僕が大学に入ってからのことだった。しかも湯布院〜別府間のみ。高速逆走や路肩に寄せて景色を眺める、などの危険な珍事が新聞(もちろん大分合同新聞)を賑わせた。博多に出るのもまだまだひと苦労だったのだ。 非常に脱線した。 <のだめ>のことである。調べてみたら、一応大分でも地上波で観られることが分かった。初回は来週月曜の夕方4時台からだそうだ。まあ、どちらにしても言えることとしては、大分では未だに「月9」という単語は一般的ではない、ということである。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-16 14:15
| もの思う日々(第1期)
ボサノヴァ関係のものを聴き出してから6年ぐらいは経つのに、ようやくこのジャンルの超有名盤を聴いた。もっともスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトの組合せのものは、<ゲッツ/ジルベルト#2>を先に聴いているので今作が初めてではない。
感想。 ジョアンはいつでもジョアンである。 これはゲッツがボサノヴァを理解していないとかどうとか、ではなくて、ジョアンその人と音楽的気質が違うということだ。ジョアンはもちろん「ザ・ボサノヴァ」のような存在ではあるけれど、それ以上に「ジョアン・ジルベルト」という音楽ジャンルなのだ。 だからジョアンの歌は、彼自身のギター以外に絡みが無くても完結して完成された音楽として聴き手に示される。幸いなことに僕は彼の初来日公演を実際に目の当たりに出来たから尚更そう思える。 一方、ゲッツはゲッツで他のジャズのテナー吹きがやらなかったような音楽を聴かせてくれる。これはこれでアリだ。同じ頃にコルトレーンが凄まじい気合と勢いで壮絶なプレイをしていたことを思い出せば、ゲッツの新しさが分かる。 あー、それから。 もちろんアントニオ・カルロス・ジョビンの音楽は最高である。 ▲
by mwaka71
| 2006-10-15 13:23
| もの思う日々(第1期)
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