フィリップ・グラスの音楽は基本的に好きだが、CDを聴いていると、時にイライラさせられることもある。しかし映像と合体すると、それは非常に魅力的な音楽に思える。<トゥルーマン・ショー>でグラス本人がキーボードを弾いているのには笑わされたが、<めぐりあう時間たち>は素晴らしかった。
さてこの<ナコイカッツィ(=日常と化した戦争の意)>にはストーリーもセリフもない。あるのは多数の断片的な映像と音楽だけである。映像だけを観ていると明らかにメッセージがある。現代社会の歪みに対する警鐘、とだけ言うとあまりにも簡単すぎるのだけれど、それでもまずはこのことを言わなければならないだろう。一方の音楽は映像にリンクしているようにも思えるし、必ずしもそうではないようにも思える。あるドラマはそこに存在しているはずだが、具体的に何かを指しているようでもない。だが、十分に魅力的である。
イメージの氾濫とも言える映像に音楽が付いている。というのが当たり前の見方だろう。しかし逆の言い方も、ここでは成り立つようにも思える。それはグラスの音楽のプロモーション・ビデオという言い方だ。
こういう作品はサントラを買ってもあまり意味がない。むしろ画面とセットになった状態を体験することがいちばんなのではないだろうか。