政治家に限らず、頻繁にマスコミ媒体に登場する人々を公人とするならば、僕たち私人は、そうした媒体を通じて、さまざまな役割を演じることを彼らに期待している。同時に彼らに対して「こうあるべき」或いは「こうあってほしい」というイメージを抱いて眺めてもいる。
だから彼らがそうした期待を裏切ったり、役割を果たさなければ批判の対象になったり、場合によっては何らかの社会的制裁を加えようとする。確かに、彼らが公人になれたのは彼ら自身の才能や実力もさることながら、それを認めてそちら側に送り出した私人側の後押しもあったのだから、背信的行為に厳しい視線が投げ掛けられるのは当然だろう。
その背信的行為が刑法上の犯罪であれば法律上も罰せられるのは当たり前だが、そうでない、例えば非倫理的な内容であればどうだろうか。それが、もし誤った知識や認識に基づいて行われたのであれば、その誤りを公に認めさせ、訂正させることは必要だ。さて、そこから先のことは、まずは自主的な判断に任せるべきではないだろうか。少なくとも、更に過剰に社会的制裁を加えようとしたり、当人の人格そのものを全否定するような行動に出るのは、ある意味で無目的なことだと思う。
ところで、公人の非倫理的な行為について、僕たちは、最初に述べた彼らの役割によって、許したり許さなかったり、という何とも言い難い曖昧な線引きをしてはいないだろうか。また僕たち私人の間であれば、実際にそうした行為をしていても全く見逃されていることもあるはずだ。公私の違いはあっても、人間としての倫理そのものの見方まで違うことは無いだろう。上述した無目的化した行動もまた非倫理的になる訳で、それが私人という立場だから、というだけで正当化されるべきではない。
また無知であること自体を批判の対象とするのであれば、公人の無知を過度に娯楽化している風潮そのものにも強い反対を示すべきだろう。そして、それ以前に、僕たちは自分の無知さ加減について、そもそもどの程度自覚しているだろうか。