大和魂(やまとだましい)とは、今どきいかめしい言葉だ。使うとすればサッカーをはじめとするスポーツの国際大会での、過熱気味なニュースや応援ぐらいではないか。
では、大和魂とはどういうものか。「日本人としての誇り」、と言ったところであまりに漠然としている。「魂」を付ければ何でもそれらしくなってしまう。「ゲルマン魂」でも「アラブ魂」でも通じる。因みに、三谷幸喜の<巌流島>には「はぜ魂」という台詞があった(観た人しか分からないだろうが)。
それは、日本人が日本人たるゆえん(ただし、ここで言う「日本人」は「ヤマト人」を指すことにする)の裏付けとしての精神、と表現した方が良いのかもしれない。赤瀬川の<大和魂>では、彼独特の視点で大和魂が示されていく。その対象になるのは、カメラ、土下座、侘び、城などだが、普段僕たちが当たり前の存在、習慣と思っていることの中に大和魂が含まれているのだ。自然や神(あるいは仏)に対して、あるいは海の向こうからやってくるものに対しても、ほどほどにしてテキトーな距離感を保ちつつ、そこに生活職人とも言うべき繊細さを発揮する一方で、時としてその職人気質が過剰になることもある。
文化や歴史は、遺構だけが物語るのではない。結局、連綿として続く人間の血の繋がりである(決して純血主義にこだわる必要は無いが)。と書いていくと、坂口安吾の<堕落論>を思い出す。
美しい国かどうかはどうでも良い。問題なのは、国の在り方以前に、人の在り方であって、正しく折衷し続けていく能力を涸らしてはいけない、ということだ。