小説でもたまにはユルいものを読みたくなることがある。だが、ユルいと言っても真正なユルさを保っていなければ嫌だ。偽物のユルさはクサっているのと同じことさ。
別に内田百閒の全部がそうだとは思っちゃいないけれども、今日読んだ短編の<特別阿房列車>は間違いなく、しかも正しくユルい。
金持ちではないが一等列車に乗るのが好きだという。そのための金をわざわざ他人から借りる。そして列車に乗って旅をすることだけが目的であって、行った先でどうこうすることは目的ではないと言い切る。自分は病気持ちだから、誰かに(こんな旅だが)同行して欲しいと思う。乗車当日に切符を買いに行って取れなかったのに、駅の幹部に頼んで切符をわざわざ工面してまで列車に乗ろうとする。ホームに上がれば、自分が乗る列車の車両を全部見る。最初の計画では8時間かけて大阪に行って、その30分後にもう東京行きに乗って帰ろうと考える。
これはグウタラとは違う。グウタラならまず旅をしない。この上なく純粋に列車が好きなのだ、彼は。
そう思いながら思い出したこと。
タモリである。<タモリ倶楽部>のユルさに共通する、とかではなくて、もし百閒が生きていたなら鉄道愛好家仲間として、絶対鉄道ネタの時は出ていただろうなあと思う。何せあの原田芳雄でさえもそれがテーマだった時には出演しているのだ。タモリと百閒の鉄道ネタの絡み、観てみたかったなあ。