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<フラニー>に引き続き読んでみた。
繊細であるが故に他人の人間的な薄さというものを過敏に感じ取ってしまい、そのために悩みを自分で抱え込んでしまった妹・フラニー。というところで<フラニー>は終わっていたが、その後の話(正確には2日後)が<ゾーイ>である。 ゾーイは彼女の兄だ。そもそも彼らグラース家には7人兄弟で、ゾーイとフラニーはいちばん下の2人である。そして2人とも物語には直接姿を現さない、いちばん上の兄、シーモアから大きな影響を受けている。 フラニーは精神のバランスを崩している。母・ベシーは何とか彼女を元気づけようとするが上手くいかない。ゾーイに手伝ってくれ、という。このベシーとゾーイのやりとりが<ゾーイ>のまるまる前半を占める。賢く頭の回転の速いゾーイ(そもそもグラース家の7人兄弟は皆「神童」という設定だ)は、平凡な母との会話を半ばふざけて続ける。親への愛情を持ちつつも、ある年齢に達すると親からの干渉をとりあえず拒みたくなる心境は、多くの人にとっても心当たりのあることではないだろうか。 後半、ゾーイはフラニーを説得しようとする。なかなか上手くいかない。自分の世界(殻というべきか)に閉じこもった方が生き方としては楽なように見える。しかし経験の少なさ、それに伴うものごとへの思考の絶対的が少ないまま、自分に閉じこもることは、生きる喜びを見捨てるようなものだとゾーイは言う。自分の存在価値を認めるのは自身ではあるけれど、それはエゴとは違う。そして、他者への愛は神(仮)への愛でもあることを説く。 ここから個人的に脱線。 自分の世界、というものは大概は純粋なものではない。いろいろなものからの影響や情報の取得、そこからの思考とその発展で形成されるものだ。自分の「核」は何処にある? その存在場所を探り当てようとすることは非常に困難だ。しかし、「核」とそれを取り巻くものがきちんと繋がっていないと、少なくとも「自分の世界」には成り得ない。何となく取り巻くものはあるが、それが繋がっていない状態が、人の軽薄さである。 本当の意味で自分の殻に閉じこもるということは、自分が何者であるかを命懸けで追究することだ。それは他者との接触を無くすことでは、実は果たせない。周囲との連絡を絶った状態は、単に自分を社会から抹殺するだけだ。それは愛情のやりとりも成立しない。この世という社会に放り出された僕たちは、結局、社会の人を全うしなければならないのだ。
by mwaka71
| 2006-06-08 11:05
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