森鷗外は随分と生真面目な人だというイメージがあった。それはどうしても同時代の漱石あたりと比べてしまうからだろうし、漱石のような洒脱さにどうも欠けているような先入観があるからだ。<坊ちゃん>や<我が輩>と<高瀬舟>や<山椒大夫>などを比べてしまうと尚更だ。もちろん、これらは両者のそれぞれ一面でしかないのではあるけれど。
<ヰタ・セクスアリス>。訳せば「性的生活」。恐らく日本語のタイトルでは今のような扱い(一応代表作のひとつ)すら受けていなかっただろう。ここに書かれた主人公、金井湛はどれぐらい鷗外自身のことなのだろうか。100%ではないのかも知れない。しかし、100%の創作でもないと思う。もうそれだけで、鷗外の作家としてのアヴァンギャルドさが窺えてしまうのだ。金井湛が子供時代から大人になった頃までのことを自伝風に書き表したものとしての作品、という二重の構造になっている、ということ以上に、そこに書かれたことの主眼が彼の性的成長を描いたことなのだから。成長、というのが適当でなければ、経験と言おう。それをズバリと(創作であろうとなかろうと)書いたこと自体が実験だ。
少年時から学生になった頃までに、年上の男から迫られたり、友人家の継母から迫られそうになったりした、とある。しかし、彼の理性と感覚はそれらを無意識的に彼から遠ざけた。彼自身の性的欲求と関心の高まりとが初めて合致したのは20歳の時だった。とは言ってもこれも半強制的にそうさせられる状態に彼が追い込まれたからではあるが、それでも抵抗し尽くそうとした訳ではない。しかし彼は常に冷静である。その冷静さこそが実は結構怖かったりもする。
僕は、金井君に似た所とそうでもない所の両方を自分の中に発見する。