1950年代、東西冷戦時代のアメリカ。単に反共主義というだけでなく、過剰に共産主義を敵対視し、社会主義的思想を一切排除しようと、いわゆる「赤狩り」を強硬に押し進めたマッカーシーという上院議員が居た。
当時のアメリカでは、たとえ本人に何の関わりが無くても、例えば親類縁者にほんの少しでも以前に労働運動に関わったことがあっただけでも、共産主義に関係したとして仕事を追われることがあったそうだ。「マッカーシズム」ということばがあるぐらいだから相当なものだったに違いない。
映画はマッカーシーのあまりの過剰さに対して疑問を投げかけ対決したエド・マローというジャーナリストを主人公としたものだ。マローの切れ味鋭い論理の展開ぶりには胸がすく思いを抱く。しかし、彼はスーパー・ヒーローではない。彼を支えたスタッフが居た。そして圧力に屈せずに番組を続けさせた経営者が居た。皆がマッカーシズムに席巻されていくアメリカに疑問を持っていたし、それこそ映画の中の台詞で言えば「自分の良心に何度も問いかけた」結果としての行動だったのだろう。
2006年現在、というより、2001〜02年頃のアメリカを思い出してみよう。やはり真偽すら確認すること無く、ひとつの方向に突き進んでいった。疑問視する者は徹底的に排除された。あの時代と同じだ。監督も務めたジョージ・クルーニーが何故今エド・マローを取り上げたのか。
ストーリー的にはあっさりしたものだったかもしれないし、ドキュメンタリー・タッチならば<華氏911>のようなやり方もあったはずだ。しかし敢えてエド・マローという主人公を設定して(もちろん実在の人物だが)、時代の空気と権力とに良心を武器にして立ち向かおうとしたその精神の尊さ(オーヴァーかも知れないが)や強さ(その対比として自殺したキャスターが登場している)を描いたのだ。これはドラマだからこそ可能だったことであり、観る者はそこに共感するのだ。
チャップリンの<独裁者>のラストの演説の場面を引き合いに出すのは畏れ多いことかもしれないが、少なくともクルーニーが制作者として向いた方角はチャップリンと同じだったのだと思う。