僕にとってショパンのレコードを聴くということは、まずはアルゲリッチを聴くということだった。彼女の演奏で2つのソナタやスケルツォ、ポロネーズの魅力を知ったからだ。その後、ミケランジェリやリヒテル、ホロヴィッツなど大巨匠たちのショパンも、CDでだが、聴いた。それでも基準に置いていたのはアルゲリッチだった。近年の彼女の演奏スタイルよりも、当時の録音の方が遥かに作曲家に対する距離感が近いからである。
そう思っていたところで、イーヴォ・ポゴレリチのショパンの<24の前奏曲>集のCDを聴いた。これは壮絶と言っていいだろう。24曲で45分かかっているのだが、これはかなり長い演奏時間ということになる。しかしひとつひとつを聴くと、テンポの速い曲はそのままに、逆に遅めに設定された曲が極端に遅いのである。
前奏曲第15番変ニ長調、例の<雨だれ>を聴く。アルゲリッチが4分50秒なのに対し、ポゴレリチは7分20秒を要している。そして彼は、ただ遅いのではない。あの執拗な繰り返しの音を、まさに一音一音刻み付けるかのように僕たちに聴かせる。それは、何となく降っている雨ではない。無数の、しかし一筋の雨それぞれが落下していくさまの中に、圧倒的な存在感と重みをそこに込めているかのようだ。
ここに存在するのはマジョルカの気候を愛でるショパンの姿ではなく、落下する雨つぶをとおして、永遠ではありえない自らのはかなさである。
その意味で、これほどまでに重く圧倒的な質感を持ったショパンはなかなかないのではないだろうか。