本当は<白洲正子展>に行こうと思っていた。しかし、世田谷美術館というのが僕にはちょっと億劫である。新宿のチケットショップを覗いてから改めて考えることにした。
結果、国立新美術館でやっている<シュルレアリスム展>に行く。<白洲展>はまた今度。
人の出入りを見ていると、どうやらここも岡本太郎展には負けているのではないか、と思う。ただそれも分かるような気がする。同じ20世紀の美術であっても、人を惹き付ける明るさというのがこちらには感じられないのである。たとえ、両方とも同じように「訳が分からない」ものであったとしても、である。<岡本展>の方には「分からない」を通り越したエネルギーやポップさが溢れていた。
いや、今日、会場に入って考えたのはまさに「分かる」とは何か、ということだった。僕はひとつひとつの作品を丁寧に観ることは早々に諦めて、それを考えながら廻った。まず上手下手ではない。上手いとか下手だとかいうのは、描かれたものが何であるか理解出来て、かつ実物がそこにあるかのように思えるかどうか、が基準となる。今日観た作品はその基準の対象外ばかりである。しかも、仮に描かれているひとつひとつのものが「分かった」としても、それらの組合せから生じている「何か」を理解出来るか、という次の問題が現れる。
まして、完全に抽象的な状態の画面と、象徴的とも言える題名にぶち当たると、途方に暮れてしまう場合だってある。これは発表された当時でも同じことではなかったか。ただ、描いた本人も作品が自分の意図を「正しく」反映しているかどうか知っていたかどうか。
こう書いてくると、シュルレアリスム絵画を否定的に捉えているように思われるかもしれないが、そうではない。描かれる、あるいは表現されるテーマやものが日常生活の中では意識され得ない部分に踏み込んだことで、イメージの世界が一気に広がったことの意味は非常に大きいと思う。そして作者の意図が絶対的なものでなくなった分だけ、解釈も多義的になる。その多義性こそが「分かる/分からない」の源になるのだと思う。
岡本太郎じゃないけれど「何だこれは!」と思わせる、感じさせることもまた、芸術の効用と言っても良いだろう。