一時期、ウォルトンの音楽ばかりを聴いていた。
きっかけは交響曲第1番とヴィオラ協奏曲だった。前者はその時期にいろいろな指揮者のCDを漁って、10種以上は入手したはずだ。また、後者のことを当時の職場で出していた情報紙の僕担当のコーナーで書いたら、館長(「あのお方」である)から良くも悪くも面白がられたものである。
ピリッとしたモダンさとロマンティックな味わいとがいい感じの音楽、まずはそう言っておけば良いだろうか。
しかし、ウォルトンの作曲家としてのデビューはもっと鮮烈だった。
<ファサード>という組曲である。1923年だから彼が21歳の年の作品。小アンサンブルに2人のナレーターが加わる。ナレーターというとちょっと違うかもしれない。ヴォーカルとも違う。歌ってはいないのだが、何となく詩を読んでいるようでもあるので、解説本を見たら「朗読者」と書いてある。分からないではないが、それもまだ違う気がする。
<ファサード>で使われた詩はイーディス・シットウェルによるナンセンスな内容のものだった。単に韻を踏むことに着目していたり、語感であったり、というところだろう。ダダイスティックなものだったのかもしれない。
そんな詩に付けたウォルトンの音楽は軽い。軽妙と言うより、シニカルな風でもある。で、話を戻してナレーター、朗読者の件。彼らは音楽の流れに乗っかって詩を読む。そこで思い出すのは当世のラップである。韻を踏んでリズミカルに詩を語り歌うのはラッパーではないか。まあ、少々大げさに言えば、ではあるが。
さて、そんな<ファサード>の位置付けを考えてみると、実験的にも思えてくる。捉えようによってはシェーンベルクの<月に憑かれたピエロ>よりも逝っちゃっているかもしれない。シュプレヒシュティンメのおどろおどろしさはいかにも「現代音楽」風ではあるが、実は<ファサード>のラップまがいの方がより「現代的」に思えても不思議ではない。ポップさを突き詰めていって出来た「どポップ」はれっきとした実験的表現だと僕は思う。