更に小泉八雲。前に読んだ<虫の音楽家>は彼のエッセイを集めたものだったのに対し、こちらはそのまんま怪談を中心に集められている。おなじみの<むじな>や<耳無し芳一>、それに<菊花の契り>、<牡丹燈籠>などなど。結末を知っていて読んでも、やはり怖くなるものも多い。
その怖さは何処から来るのか。それは、突然主人公が不可解な出来事に襲われるからという筋もあるが、実際にもっと怖いのは、人の情の行き過ぎた深さや強い執念に巻き込まれることだ。その強い執念は生きて肉体の中に宿っている時よりも、死んで肉体が滅んでしまうことで解放されてしまうことで、生者にとっては通常目には映らない不可解な存在となる。不可解な存在に取り憑かれて命を落とす話は多いが、その説明は不可解なままではなく、因果や業として説かれる。それは苦し紛れの展開ではなく、むしろ合理的とも言える。そういう認識が、かつての日本では当たり前のようになされていたはずで、八雲はそれを共感をもって描いているように思われる。
昔は今よりも生と死の境目が曖昧なものだったのではないか。死者は一方的に怖れの対象となるばかりでなく、その裏返しとして敬い丁重に扱うべき存在でもあった。死者を通じて己の生を見る、ということもあっただろう。だから八雲が伝える怪談は、ただ読み手を無闇に怖がらせるホラー小説ではない。生と死の意味を問う、ある種の哲学でもあると僕は思う。