実は、聴けば聴くほど、不思議な曲に思えてくる。この協奏曲はしばしば「ピアノ付きの交響曲」という言い表され方をするのだが、それは重厚な管弦楽に拮抗するぐらいにピアノにも重みを与えていることと、通常の協奏曲の例を破って4楽章形式にしていることが主な理由だろう。もちろん前者の方が重要な意味を持つはずだ。
ピアニストにとっては難曲とも言われる一方で、技巧を派手に見せつける作品ではないから、その点では確かに協奏曲らしさは薄いのかもしれない。だが、それ以上に、この曲が楽章を進めるごとに、音楽の質が軽くなっていく、軽やかさが増していく(全く悪い意味ではなく)ことの方が重要なことなのではないか。軽さと言っても、もちろんブラームスとしては、という意味ではあるのだが。
管弦楽の使い方を見ても、前半2つの楽章にはあったトランペットとティンパニは後半2つの楽章で全く使われていない。緩徐楽章である第3楽章にそれらが無いのは、まあアリだろうが、フィナーレである第4楽章でも省かれていることは、当然全体の印象が大きく変わってくる。前半2つの楽章の重さに対しての後半2つの楽章、あるいは前の3つの楽章を受けての第4楽章、という見方をした場合、第4楽章が軽過ぎるのではないか、ということだ。
他の3つの協奏曲(ピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲)ではブラームスはそんなことをしていない。それらはいずれもオーソドックスな、「協奏曲らしい」華々しい終わり方を迎えるように書かれている。
ブラームスの管弦楽作品で、華々しさよりも軽やかさを追求した作品は他に無いだろう。交響曲第3番も特殊な作品だとは思うが、ピアノ協奏曲第2番とはまた性格が異なるように思える。また交響曲のようにフィナーレの大団円に向っていくために楽章が積み重ねられていく訳でもない。その意味ではこの「協奏曲」に向って「ピアノ付きの交響曲」という言い方を仮にするにしても、二重のカッコ付きでの「交響曲」だと思わなければならないだろう。
僕には、この曲の4つの楽章は、フィナーレを目指して順次進行するというよりも、対等に併置されているようにも思えてくる。その意味ではまさしく「破格」の協奏曲である。
うまくまとまらないので、とりあえず。