前に録画していたVHSをDVDに整理中。10年近く前に録ったベルリンpoのライヴがあった。
クルト・ザンデルリングの指揮で、ハイドンの「熊」とショスタコーヴィチの第8をやったときのものだ。久しぶりに聴き直して(観直して)みて、やはり素晴らしい演奏だった。
ショスタコーヴィチのことを手短に。
結局、聴き手にとっても解釈が分かれるのは第5楽章(フィナーレ)だろう。それまでの4つの楽章が悲劇的であったり、暴力的であったりすることは誰が聴いても理解出来る。しかし第5楽章はどうか。
おどけた風はある。一方で、第1楽章の悲劇的な冒頭部分が完全によみがえることで、悲劇は終わらないという捉え方もある。少なくとも、戦争の勝利を楽天的に予言するものではない。
静かに全曲がハ長調で閉じられる、ということが、却ってこの作品全体の印象を謎めかす。
大学時代のこと、オケ仲間のトランペット吹きがこの終わり方についてこう言った。「宇宙遊泳をしている人が、パッと綱を切られて、そのまま宇宙空間にス〜ッと放り出されていくようなイメージ」と。全てに同意出来る訳ではないが、非常に理解出来る。「ス〜ッと放り出される」という表現がいいと思う。
今晩聴いて思ったのは、これは勝利でも敗退でもなく、悲劇でも喜劇でもなく、喜びでも絶望でもない、何処にも属さない「無」に溶けていくイメージだった。「無」を永遠の悲劇とも、どっちつかずの悲劇とも捉えることも可能だが、むしろ「無我の境地」として使われる「無」と言うべきである。後に何も残らない「無」とも言える。だが音楽である以上(音楽に限りはしないが)、何らかの表現は必要だ。矛盾はするのだが「無」を表現する音楽、と言えば良いか。
この作品についての謎を考えることは、ひとつの哲学である。