芥川龍之介<侏儒の言葉>より
<恐怖>
我々に武器を執らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかも屢(しばしば)実在しない架空の敵に対する恐怖である。
<支那>(=中国/原文のまま)
蛍の幼虫は蝸牛(かたつむり)を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新しい肉を食う為に蝸牛を麻痺させてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。
<阿呆>
阿呆はいつも彼以外の人々を悉く(ことごとく)阿呆と考えている。
今でも芥川龍之介は好きな作家だが、以前にひたすら彼の作品ばかりを読んでいた時期がある。何よりも彼の作品が、いわゆる「文豪」と呼ばれる作家の中でも、ひとつの作品の文量がひときわ少ないからだった(笑)。また何処で読んだかは忘れたが、彼が「難しく書くことよりも、簡単に書くことの方が難しい」というような意味のことを書いていたように思う。僕にとっては、そのことば(正確には覚えていないけれど/笑)は金言として捉えている。
ものごとの本質を短い言葉で言い表すことは非常に難しいし、また勇気のいることでもある。単に思い切りよく、というだけでなく、文字に書き表す以前に自分の中で発酵させ、整理し直して、という作業が必要になるからだ。この作業こそ実際には時間もかかるし、対象のものごとを取り巻くさまざまな事柄をどれだけ意味的に関連づけさせられるかであり、かつ一旦それらを抽象化させられるかにかかる。
<侏儒の言葉>を読むと、一方的な受け手に徹するのではなく、思考と想像とを最大限に働かせること、その重要さを思い知らされる。