一般的なクラシック音楽の話として、スケルツォを日本語にすると諧謔曲と、分かったような分からないような訳になる。もっともこれは随分昔の言い回しだから、最近は中学や高校の授業でも使わないのかも知れない。
諧謔。今、ネット上の辞書で調べた。「おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。」と三省堂の<大辞林>には載っているそうだ。ベートーヴェンが書いたスケルツォにはこれにそのままあてはまるようなものはある。だがショパンはどうだろうか。変ロ短調や嬰ハ短調のスケルツォでは「冗談」とか「ユーモア」と表現するには、かなりかけ離れた、壮絶ささえ漂う劇的な音楽であり、刺激的なものだ。
だが、ショパンがスケルツォと題した最後の作品であるホ長調はどうか。重さよりはむしろ軽さの方が目立つ。刺激よりも柔らかみを感じる。では、ただのおとなしい曲かというとそういう訳でもない。もちろん部分的な揺れ動きはあるものの、全体としては非劇的(悲劇ではなく!)だと思う。山あり谷ありという展開でないこと自体がひとつの主張である。更に言えば、主題ですらショパンとしては旋律的とは言い難く、目立つことを拒むようなものだ。とは言え、中間部の翳りの美しさは素晴らしい。そこにあるのは、ためらいであり哀しみである。中間部を挟んだ前後、主部では、精一杯明るくしようとするが、そこにも微妙に音楽の動きが重くなるところがある。
そう観ると、このスケルツォ第4番は、ショパンにとって「一般的なスケルツォ」に対するスケルツォなのかもしれない。平たく言えば、それまでのスケルツォに対するツッコミ、ということか。
晩年のショパンの作品には、表面上の劇性よりも、一見穏やかな雰囲気の中で綴られる、温かな哀しみを感じさせるものが多いように思う。この空気、どこかで体感したと思うと、マーラーの交響曲第9番や<大地の歌>だった。生きた時代は違うが、一人の人間として観ていた心象風景は案外似ていたのかも知れない。