山口県立美術館でピカソ展を観た。
キュビスティックなものから新古典主義へ、そしてまるで幼児の落書きのような晩年の作品など100点以上が並べられていた。
観ながら思ったこと。
まず、ピカソにとって絵を描くことは3度の食事のようなものではなかったか。でなければ、あれだけの作品数は遺せない。同じテーマで描いても、たった数日違いで大きな違いを見せる<接吻>のような作品もある。イメージが次から次へと浮かんできたはずだ。それを素早くカンバスに留める。それがピカソの多くの作品だ。
次。ピカソの描いた人物像を観たとき、描かれた顔のパーツの位置関係が一見バラバラでまるで福笑いかと思ってしまう(失礼!)。しかし、よく考えてみれば、僕たちは人物画というものを、自分の頭の中でひどくパターン化している。顔、胴体、手足、全てが静止して繋がった状態でひとつの画面上に存在する、ということだ。そういうお約束をピカソは打ち砕いた。もともと立体即ち3次元のものを如何に平面上即ち2次元で表現するのか。2次元で、そしてお約束どおりの状態で表現した時点で、それはある意味で観る者の錯覚を期待しているはずだ。ピカソは錯覚を期待しないばかりか、別の見方を提示する。顔を正面や横から見た状態を両方とも同じ画面上で描くのだ。顔の展開図である。もちろんそこにデフォルメは、ある。だが、やはりこれも紛うことなく顔を表現しているのだ。何となく、ジャズでメロディを徹底的に分解し、再構成したものが結果として恐ろしく大胆なかたちに変化してしまうセロニアス・モンクやエリック・ドルフィーを思い出す。これは人によってはコルトレーンかも知れないが。
余談。この展覧会、チラシ、ポスターが良かった。「ピカソ」とカタカナでデカデカと書いてあるだけ。しかも赤地の白抜き、あるいはその逆で白地の赤抜き。ついでに言えば、街のメインストリート(ま、大分市よりもちと寂しいが)、商店街などにはバナーやポスターが随所に飾られていた。これだけやって盛り上がらないはずはないだろう。実際、今日も人は多かった。
だが大分ではこれだけのノリで展覧会がかつてあっただろうか。そう思うとこっちの方が実は寂しいことに気づく。