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前から関市に行ってみたいと思っていた。篠田桃紅と円空を観たいから。
基本、鉄道もしくはバス移動の身からすると関は少々不便である。そう言い続けているといつまでたっても行けないので少し気合を入れて関に行ってみることにした。とりあえずまずは市役所内にある篠田桃紅の展示を目指そうと思った。 JR岐阜駅前からバスに乗る。金華山の南側を通って、山と山の間を抜けて、全く初めて見る風景が続いた。岐阜駅を出て50分位かかって関シティバスターミナルに着いた。「シティ」で「ターミナル」だからビルのようなものを想像していたが、普通にバス乗り場だった。 そこから北東に歩いて市役所に向かう。10分ちょっとで着いたが、いまいち場所が分からない。最初に入ろうとしたところは今日やっていた選挙の投票所だった。そこは通り抜けられるはずがないから、別の出入口だろうと思って探したら、一応表に看板の出ている所があったので、そこから入ろうと思った。そこで気が付いたのだけれど、休館と出ている。設備の不具合だか何だかで長期休館していたのは知っていたが、3月末までというのをネット上で見た記憶があったので大丈夫だと思っていたのだが、どうもおかしい。そこの事務室にいた市の職員さんに訊いたらやっぱり休館していると言う。 教えてくれた職員さんには礼を言ったが、気持ち的には「どんだけ休館しとんねん」という感じだった。仕方が無いので、とにかく関駅に戻ることにした。関市役所前駅も道中で見えていたが、田畑のど真ん中に駅舎も無くぽつんと待合とホームだけがある侘しい雰囲気だったので、そっちには行かなかった。 さて、どうするか。そもそも長良川鉄道も本数が少ない。美濃太田方面に出たら、多分僕は後は名古屋市内でいつものようなブックオフやらCDショップだけに行くありきたりな時間を過ごすことになる。駅の時刻表を見ると郡上八幡方面行きの列車の方が先に来る。ここからまた1時間程度はかかるが、郡上にも久しぶりに行ってみたかったのでそうすることにした。 前に郡上八幡に行ったのは18年前、西宮から郡上おどりの徹夜おどりを観るためだった。長良川鉄道に乗るのもそれ以来初めてである。 1両ワンマンの列車にはそこそこの人が乗っていたが、座れる程度。長良川が右に見えたり左に見えたり、近づいたり見えなくなったりを繰り返しながら山の中へと進んでいく。18年前は夜に乗ったから景色の記憶は全くない。 海外からの観光客と思しき男女が居たので、郡上に行くのかと思っていたら美濃市で降りていった。僕は美濃市のことはまだ何も知らない。 13時前に郡上八幡に着いた。前に来た時に駅から街の中心街までまあまあの距離を歩いた記憶はあったので、駅の観光案内所で自転車を借りた。小ぶりな自転車だが気持ちは良い。中心部が近付くに従って観光客と県外ナンバーの車が増えてきた。もちろん、郡上おどりの時期ならもっともっと多いはずだが、やはり観光地である。 吉田川に架かる橋を行き来して、城下町プラザで一旦自転車を置かせてもらって、歩く。ベタだろうけれど宗祇水を観て、それから博覧館に行った。郡上おどりを実演で紹介しているからである。入館時に訊くと台湾からの観光客の団体が何十人分かで予約していると言う。まあ、観られれば良いので、隅っこで観た。通訳も交えつつの紹介はなかなか面白かった。本当は曲数も時間ももう少し多い方が有難いのだが、それは僕が阿波おどり会館の経験があるからだろう。 郡上八幡にせっかく来たのだから、城に行きたかった。だが、こちらも残念ながら工事中で登城道の途中までしか行けない。ゴールデンウィークを目指して作業しているのだろうから、これもまた仕方が無い。 城と食事の時間を省略した一人旅なので、時間が中途半端になった。到着時に思っていたよりも早く帰ることにした。 15時過ぎの列車に乗って、今度は美濃太田まで出て、高山線経由で帰宅。 もう少し下調べをちゃんとすべきだったのかも知れないが、かと言ってガチガチにスケジュールを決め切って動くのも味気ないことだ。行き当たりばったり旅は、結果的に当たりはずれはあるのだろうけれど、今日はまあまあだったかな。 #
by mwaka71
| 2023-04-24 00:14
| 旅
<レコード芸術>が休刊するとのこと。
時代だな、と思う。と言う前にここまでよく続いたな、とも思う。 僕が<レコ芸>を初めて買ったのは1983年か84年頃のはず。中2か中3で、まだクラシックを聴き始めて間もない時期だった。 当時僕が暮らしていた大分でクラシックを聴く環境なんて、それはそれは貧しいものだった。演奏会がめったに無い。もう少し正確に言えば、演奏会の情報が入ってこない。そしてレコードを扱っていたのは「お町」に4つ。レコード店としてはリズムレコード、ヱトウ南海堂、OBSサービスの3つ、それにトキハのレコード売り場。以上。1か月のお小遣いで買えるレコードはほぼ1枚である。必然としてレコード選びには慎重にならざるを得ない。1枚買うのに4か所を何度も回って、4時間くらいかけてようやく1枚買う、ということはよくあった。 田舎故に新品の輸入盤なんてものはお目にかかったことがない。廉価盤のシリーズものはまああったが、少し前に出ていたはずのものは見当たらないし、大体入荷していたかどうかだって分からない。代わりに売れ残りと思われるものは多少ある。 いかに効率的に自分のレパートリー(自前で聴ける曲)を増やすかが当時の至上命題だった僕にとっては<レコ芸>こそ最高の情報源だった。ただし、曲のことをよく分かっていない子供からすると、まずはどんな曲のレコードが世に送り出されたかが分かること、あるいは特集の中で紹介される過去の名盤の情報の方が意味あるものだった。もちろん、「権威ある諸先生方」の「お墨付き」を得たレコードは「とても優れた演奏」なんだろうな、とも一応は思っていた。 大学(僕は関西に出た)を卒業するまでは毎月の発売日に必ず書店で購入する習慣になっていたのだが、その年頃ぐらいになってくると、多少は自分の好みというものも見えてくる。そうなると「お墨付き」が段々と不要になってくる。せいぜい「参考意見」という捉え方になる。一方で情報源としての部分だけは重要なままである。購読は止めて、広告のページだけの立ち読みになる。それがやがてインターネットの時代になると、情報はそっちからも得られるので、立ち読みもしなくなった。 <レコ芸>を手に取らなくなって、もう20年位は経つ。だから、昔世話になったことに対しての感謝の念は少しはあるのだけれど、それ以上どうのこうのという感情や感傷は全くもって起こらない訳で。
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by mwaka71
| 2023-04-09 22:15
| 日々のこと・雑感
坂本龍一という人を最初に知ったのは僕が小学生高学年の頃だった1980年代初めのはず。だからまずはYMOとして。
とは言え、YMOを凄いと思うようになったのはずっと後のことで、当時は<君に胸キュン>とかのヒット曲を歌っていたグループという程度のこと。<ライディーン>は知っていたけれどあとは売れた歌モノだけだった。そう言えば坂本と忌野清志郎の<い・け・な・いルージュマジック>もその頃だったと思う。 それから<戦場のメリークリスマス>を観たが(テレビで観たという記憶)、もちろんテーマ曲は当時から何となくいい曲だなと感じていた。 その頃に僕は偏狭なクラシック好きになっていたので、あまりそうではないジャンルの音楽を聴くのは避けていた。今から思えば非常につまらない態度だったのだが、子供のしょうもうない思い込みが強かったのだから仕方が無い。でも坂本のことは何となく関心を持っていたはずで、<ラストエンペラー>は映画館で観た。そして多分姉が買ったサントラのCDを繰り返し聴いていたものだ。特段のファンという訳でもなかったようだけれど姉は<NEO GEO>も何故か買っており、そのおこぼれみたいな感じで僕も聴かせてもらっていた。 その次に僕が坂本に興味を覚えたのは1990年代後半だったか。YMO(のアルバム)を今度こそちゃんと聴いたからで、坂本の方のものは彼のソロとして初期のアルバムをいくつか。彼のアルバムをそこまで知っている訳ではないが、例えば<B2-Unit>や<エスペラント>といった初期のものの方が僕の好みには合っている。 しかし、びっくりするくらいに売れた<energy flow>とかは正直なところピンとこない。まあ、それは僕が「癒しの音楽」という言い方を嫌っていることから来ているのかも知れない。ムード音楽、それっぽい雰囲気の音楽に近付いて行っているように感じられるのが気に食わない、とも言える。彼のライブにも行ったけれど、そんなに感銘を受けなかったのもそういう僕自身の気分によるものだったか。<ZERO LANDMINE>なんかも理念の素晴らしさと、出てくる音楽のつまらなさのギャップにがっかりした記憶がある。 一方で、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲だけのアルバム<CASA>(坂本のソロ名義ではないが)は愛聴盤になったし、「坂本-ジョビン-ドビュッシー」という繋がり方を自分なりに感じられたという意味でもとても良かった。 こうやって振り返ってみると、坂本の音楽なら何でも、というような受け止めではなかったのだが、それでも僕がリアルタイムに触れてきた音楽家の中ではとても大きな存在だったなと思う。
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by mwaka71
| 2023-04-04 03:04
| 日々のこと・雑感
11月13日、日曜日。天気予報どおりの雨。 葬祭場に泊まり込んだ姉たちの朝食が気になったので、早めにもろもろの支度をして母と出かけた。 8時30分少し前に到着。姉たちは自分たちで朝食は調達したとのこと。 葬儀は13時からだが、段取り確認やお経をあげてくれるお坊さんへのあいさつ、少ないとは言え参列してくれる親戚が到着するとあいさつと記帳のお願い、香典と香典返しの受け渡し、お斎への案内など、そういったことを喪主の僕と故人の妻である母の二人で大体やることになるので、とにかく慌ただしい。もちろん、日頃からいちばん母と行き来のある叔父にもとても助けてもらいつつではあった。叔父は祖父と祖母を送ってきた経験もあったので。 13時開会。うちは真宗大谷派、らしい。父の生前の時からそうだったけれど、本家筋ではないし、あまり法事のようなことをきっちりとやるとかいう家庭ではなかったから、いざこういう大事の時にしきたりなどが分からないことばかりになる。それでも、葬祭場の担当の人からのレクチャーや、当然のことながら丁寧な進行に乗っかることでつつがなく進められていく。 喪主あいさつは、前日に大体の内容は考えていた。こんな時に「いい話」のようなノリにするつもりもないが、父への感謝や参列者への礼を踏まえる感じで、家族の思い出でもある「旅」とかけて話した。 最後に参列者で棺に花を納める。改めて父の顔、姿を正視するのは辛かった。前に祖父の葬儀の時は棺の蓋を釘打ちして、相当に大泣きしたのだが、今回は釘打ちはなかった。葬祭場の担当の人から、今は時代が変わってそれはしないようなことだった。それでも心動かないはずがない時である。 14時過ぎに霊柩車に棺を載せて、僕と母は同乗して火葬を行う市の斎場に出発した。他の参列者も各々の車に乗って向かう。 葬祭場の担当の人と一緒に斎場の受付で手続きをして、順番が来るまでロビーの待合で待機する。今回のことで父方の親戚筋の人たちにも数十年ぶりに会った。さすがに大人なので会話をするにしても間合いを図りながらでもどうにかなる。 2、30分待っただろうか。放送で呼出される。全員で炉のある部屋の前室に向かう。そして喪主である僕だけが更に進んで、炉の傍に立つ。父の棺が炉に入れられ蓋が閉じられていくさまを見つつ、その短い間で心の中で父に別れを告げた。本当に本当に辛い一瞬だった。そして炉のスイッチボタンを押すよう促された。辛いけれど今更ためらうところではないのでボタンを押した。 また何十分かしてから呼び出された。骨になった父との対面である。斎場の人が骨壺に骨を納めていく段取りを進めながら、骨の説明をしてくれる。その人が言うには父の骨は全体としてなかなか立派なのだそう。多分子供の頃に魚をたくさん食べていたからだろう。しかし、骨は丈夫でも運動をしないで不摂生ではやはり衰えに繋がる。 みんなで何周か骨を拾い上げ、最後に頭蓋骨の一部を納めて終わりにする。 斎場で参列者にお礼を言って解散。葬儀の一連での「公式行事」は以上で終了となる。 こうして僕が生まれてから接してきた父の姿とはお別れをした。 父が生前最期の日々を、何を想い、感じていたかを、直接の言葉のやりとりで知ることが出来なかったことにはとても悔いが残っているし、辛さもある。父は許してくれるだろうが、やっぱり僕は親不孝だと思っているし、その想いを背負って生きていく必要はある。 そして、人生を全うする、ということは果たしてどういうことなのか。父の死、父との別れを通じて、僕は改めてこの正解の無い問いを認識した。 #
by mwaka71
| 2023-03-14 01:07
| 日々のこと・雑感
11月12日。葬祭場で午後から父の納棺を行う。
母と二人で葬祭場に入る。ここは以前、母の両親(僕の祖父母)の葬儀も行った所だが、自分が喪主の立場で父を送ることになると随分と心持ちが違う。変な言い方をすると、祖父母の時はただ悲しんでいるだけでも良かった。年月が経ったからということもあるのだろうが、今回はただ悲しみにくれている訳にはいかない。 棺に仮安置されている父を改めて布団の上に移す。二人の女性スタッフが父を湯灌して、経帷子を着せて死化粧をしてくれた。丁寧な仕事だったと思うが、口角の上げ方に本当は少し違和感を感じないではなかった。生前の父が絶対にしなかった顔つきになっていたからだが、だからと言ってそれまで見ず知らずの二人に注文を付けるつもりもなかった。そもそもその時点で顔の筋肉を動かすことも実は大変だったのかもしれない。 多分前後しているはずだが、母と僕とで父に死に水を取らせてあげて、白足袋をはかせた。 以前帰省した時に父に頼まれて足の爪を切ってあげたことを思い出した。父にとても感謝されたが、大げさだなと思いつつも身体が思うように動かなくなっていた父をかわいそうにも思ったし、そんな父の面倒をずっと見ている母の大変さも改めて感じた。 また別の時、3人で温泉に行った。晩年の父にとっては入浴も大ごとになっていた。家の風呂場で事故になりそうな感じがしばしばあったらしい。それで温泉場で他の入浴客と一緒になる大浴場ではなくて貸し切りの家族風呂に入った。父を抱きかかえるようにして湯船に一緒に入り、出た。この時もとても感謝されたが、感謝される方がむしろ父が弱々しくなったことを実感して、却って辛くなった。 納棺に伴う一連の流れを終えるのに2時間半か3時間くらいかかった。 葬祭場でうちの葬儀を担当してくれる人たちは、その日はそこで仕事が終わり帰宅するとのこと。僕と母も夜伽はしないのだが、関東在住の姉とその夫である義兄、その息子(僕の甥)が、ホテルが取れなかったこともあり、それからの時間に葬祭場に来てそのまま泊まることになっていた。 18時頃、姉の一家が到着。姉は体調の問題があり、大分に帰ってきたのは多分10数年ぶりだったはず。僕も会うのは相当久しぶり。電話やメールでやりとりしていたとは言え、生前の父と最後に接したのは本当にかなり前のこと。年に2回だけだったが父の衰えを直接見ていた僕からすると、もっと早く会っておいてほしかった。当然のことだが姉は大号泣した。その姿を見ると「もっと早くに」という言葉をかける気は全く起らなかった。 翌13日がようやく葬儀の日となる。天気のことを気にかけつつ、姉たちを残して母と帰宅した。(つづく)
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by mwaka71
| 2023-03-07 00:35
| 日々のこと・雑感
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