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個人的な諸事情のため、全ての記事を非公開にしていましたが、年も改まったので一部の記事については再公開にします。
なお、新しいブログを別にやっていますので、もしご興味がおありの方は<今日ふと心に浮かんだ考えは。>http://mwaka71.blog.so-net.ne.jp/ の方へどうぞ。
今日耳にした音楽の記録。
・シューベルト/交響曲第7(8)番 ロ短調 D.759 ブリュッヘン/18世紀o<93L> ・グリーグ/ピアノ協奏曲 イ短調 作品16 カッチェン(p)ケルテス/イスラエルpo<62> ・バルトーク/弦楽四重奏曲第4番 Sz.91 ジュリアードq ・アレンスキー/チャイコフスキーの主題による変奏曲 作品35a バルビローリ/ロンドンso<64> ・ファリャ/デュカスの墓のために ドビュッシーの墓のために <三角帽子>の3つの小品 エッセール(p)<89> ・マイルス・デイヴィス/
今日耳にした音楽の記録。
・ライリー/Shri Camel ライリー(el-org) ・ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調 カッチェン(p)ケルテス/ロンドンso ・バルトーク/ピアノ協奏曲第3番 Sz.119 カッチェン(p)ケルテス/ロンドンso ・ディジー・ガレスピー/Dizzy On The French Riviera ・マイルス・デイヴィス/Complete Ann Arbor 1972
今日耳にした音楽の記録。
・ニールセン/交響曲第5番 作品50 FS.97 ベルグルンド/デンマーク王立o ・ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調 作品67 クレンペラー/フィルハーモニアo ・ブラームス/チェロ・ソナタ第1番 ホ短調 作品38 ロストロポーヴィチ(vc)リヒテル(p) ・アイヴズ/交響曲第4番 V-39 ドホナーニ/クリーヴランドo,cho
今日耳にした音楽の記録。
・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110 グリモー(p) ・ショスタコーヴィチ/交響曲第13番 変ロ短調 作品113 プレヴィン/ロンドンso,cho ・ショスタコーヴィチ/マリーナ・ツヴェタエワの6つの詩 作品143 ヴェンケル(S)ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウo ・フェラーリ/Danses Organiques フェラーリ(テープ)
今日耳にした音楽の記録。
・ブルックナー/交響曲第5番 変ロ長調 ケンペ/ミュンヘンpo ・モーツァルト/交響曲第41番 ハ長調 K.551 ブリュッヘン/18世紀o ・ルーセル/交響曲第4番 イ長調 ヤノフスキ/フランス国立放送po ・モーツァルト/ミサ ハ短調 K.427 マクリーシュ/ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ
今日耳にした音楽の記録。
・ハイドン/交響曲第104番 ニ長調 Hob.I-104 ヨッフム/ロンドンpo ・ルーセル/交響曲第3番 ト短調 ミュンシュ/ラムルーo ・シンプソン/交響曲第3番 ホーレンシュタイン/ロンドンso ・ラヴェル/ピアノ三重奏曲 ルヴィエ(p)カントロフ(vn)ミュレル(vc) ・マイルス・デイヴィス/<Kind of Blue> ・ルトスワフスキ/交響曲第2番 サロネン/ロスアンジェルスpo ・ジョン・コルトレーン/<A Love Supreme>
今日耳にした音楽の記録。
・バッハ,JS/トッカータとフーガ ヘ長調 BWV.540 トッカータとフーガ ニ短調 BWV.538 パッサカリア ハ短調 BWV.582 リヒター(org) ・ドヴォルジャーク/聖書の歌 作品99 B.185(小管弦楽版) インドラーク(Br)スメターチェク/プラハso<70> ・イベール/組曲<寄港地> ミュンシュ/ボストンso<56> ・シューベルト/交響曲第4番 ハ短調 D.417 ジュリーニ/シカゴso<78> ・ドヴォルジャーク/交響曲第8番 ト長調 作品88 B.163 ジュリーニ/シカゴso<78> ・シャブリエ/楽しい行進曲 狂詩曲<スペイン> カラヤン/フィルハーモニアo<60> ・サン=サーンス/交響詩<オンファールの糸車> 作品31 ミュンシュ/ボストンso<57>
随分と久しぶりに百閒先生の本を読んだ。いつものとおり、ちくま文庫の集成である。
やっぱり面白かった。 今回は酒の話もあるけれど、飛行機と船のことについてのものの方がより目立つ。特に飛行機。この時代の文人で彼程飛行機について書いた人は他に居ないのではないだろうか、と思う。 そもそも百閒が飛行機に関わるようになったのは、教鞭を執っていた法政大学に何故か航空研究会が出来たせいだし、その会長(まあ顧問みたいなものだろう)を引き受ける教官が他に居なかったせいだ。とは言え、彼の文章を読んでいると別段いやいや引き受けたようでもなさそうに見える。むしろ誰もやったことがない(大学では初の航空研究会だった)分だけ、張り切って事に当たっているようにも思える。 そして会が一応立ち上がると、今度は百閒自身も飛行機に乗ってみることになる。僕は未だに飛行機が苦手だから、もし自分が彼の立場になったとしても、何とか言いながら必死にご遠慮申し上げるだろうが、さすがに百閒は違う。と言うより、そんなにビビっている風ではない。しかも、いざ乗ってみると新しい感覚の体験に心を奪われたようで、その後はほとんど怖れること無く、何度も飛行機に乗ったようだ。鉄道紀行文学だけじゃなくて航空文学も百閒が最初なんじゃないかとも思う。 しかし、そうは言ってみても、彼の中での乗物の優先順位はやっぱり汽車の方が上であることが「らしい」のである。 そんな百閒が船に乗ると、というのがこの本の後半に掲載されているいくつかの作品で分かる。ここでも彼はいつもどおりである。乗物に乗るために早起きはしないとか、自分の食事のペースは基本的に曲げないとか。 興味深かったのは、<阿房列車>の有名な冒頭部分、「何にも用事がないけれど」のくだりと同じような考えが、戦前の作品に既に書かれていたことだ。あの「ひねくれ/屁理屈」は歳を取ってからのことではなく、彼が持って生まれた気質であったことがよく分かる。 やっぱり百閒先生はいつも百閒であって、それが読み手にとっては楽しいのである。
今日耳にした音楽の記録。
・フランク/交響曲 ニ短調 ビーチャム/フランス国立放送o<59> ・ベートーヴェン/弦楽四重奏のための大フーガ 変ロ長調 作品133 ラサールsq ・モーツァルト/クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 ペイ(バセットホルン)アカデミー・オブ・エンシェント<87> ・ブラームス/ピアノ四重奏曲第3番 ハ短調 作品60 ドーマス
今日耳にした音楽の記録。
・ドヴォルジャーク/チェロ協奏曲 ロ短調 作品104, B.191 ロストロポーヴィチ(vc)カラヤン/ベルリンpo<68> ・ストラヴィンスキー/詩篇交響曲 ガーディナー/ロンドンso, モンテヴェルディcho<99> ・バッハ,JS/無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 クイケン,S<00> ・ハチャトゥリアン/交響曲第3番 ハ長調<交響詩曲> コンドラシン/モスクワpo<65> ・シャブリエ/ハバネラ、気まぐれなブーレ、アルバムの一葉、カプリース、オーバード、 バラビル、田園風のロンド ヒューイット(p)
今日耳にした音楽の記録。
・マーラー/交響曲第1番 ニ長調 シノーポリ/フィルハーモニアo<89> ・ショパン/練習曲集 より 第1番ハ長調作品10-1、第2番イ短調作品10-2、第4番嬰ハ短調作品10-4、 第5番変ト長調作品10-5、第6番変ホ長調作品10-6、第12番ハ短調作品10-12、 第13番変イ長調作品25-1、第17番ホ短調作品25-5 ベレゾフスキー(p)<05> ・ゴドフスキー/ショパンの練習曲による53の練習曲 より 第1番ハ長調、第4番イ短調、第6番嬰ハ短調、第8番ハ長調、第9番イ短調、 第13番変ホ長調、第22番嬰ハ短調、第25番変イ長調、第34番嬰ハ短調、第47番変ト長調、 第48番へ長調 ベレゾフスキー<05> ・ルトスワフスキ/ロスアンジェルス・フィルハーモニックのためのファンファーレ サロネン/ロスアンジェルスpo<94> ・ルトスワフスキ/ピアノ協奏曲 クロスリー(p)サロネン/ロスアンジェルスpo<94> ・フリッカー/交響曲第2番 作品14 プリッチャード/ロイヤル・リヴァプールpo<54>
今日耳にした音楽の記録。
・フォーレ/ピアノ三重奏曲 ニ短調 作品120 ルヴィエ(p)カントロフ(vn)ミュレル(vc)<85> ・フォーレ/子守歌 作品16 スーク(vn)パネンカ(p) ・フォーレ/パヴァーヌ 作品50 ビーチャム/フランス国立放送o<59> ・マスネ/組曲第4番<絵のような風景> ガーディナー/モンテ・カルロ国立歌劇場o<78> ・バルトーク/ヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112 ムローヴァ(vn)サロネン/ロスアンジェルスpo<97> ・シューマン/チェロ協奏曲 イ短調 作品129 マイスキー(vc)バーンスタイン/ウィーンpo<89> ・ショスタコーヴィチ/交響曲第11番 ト短調 作品103<1905年> コンドラシン/モスクワpo ・シューマン/交響的練習曲 作品13 ゲルバー(p)
今日耳にした音楽の記録。
・ブラームス/交響曲第2番 ニ長調 作品73 C.クライバー/ウィーンpo<92L> ・ラロ/交響曲 ト短調 ビーチャム/フランス国立放送o<59> ・ストラヴィンスキー/ミューズの神を率いるアポロ サロネン/ストックホルムco<90> ・ドビュッシー/ピアノ三重奏曲 ト長調 ルヴィエ(p)カントロフ(vn)ミュレ(vc)<87> ・ドヴォルジャーク/交響曲第9番 ホ短調 作品95 セル/クリーヴランドo<59> ・ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3 A.フィッシャー(p)<78> ・シンプソン/交響曲第1番 ボールト/ロンドンpo<55> ・シュトックハウゼン/ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ガヴリロフ(vn)コンタルスキー(p)<76> ・シュトックハウゼン/クロイツシュピール シュトックハウゼン/ロンドン・シンフォニエッタのメンバー<73>
だいぶ前から気になっていたので久しぶりに東京国立博物館へ。ちょうど写楽展もやっているが、それはまた今度にしようと思う。
僕は小学校の4年ぐらいの時に「マンガ断ち」をしたので、同世代の人が読んでいそうな作品を知らない。正直マンガを見下していた時期もあったのだが、さすがに今はそうではない。むしろ名作と呼ばれるものに触れてみたい気持ちは大いにある。そんなこともあり、手塚治虫は知っていても、彼の作品をきちんと読んだことは残念ながら無い。 そういう前提ではあっても、この展覧会のテーマはブッダだから、何の基礎知識も無いままという訳ではないので、それなりに理解出来るだろうと思う。 展示品の内容としては、3分の2ぐらいが手塚治虫の描いた<ブッダ>の原画で、残りはそれに関係しそうな絵や彫刻だった。 ここで展示された手塚作品は確かにマンガであり、その中のコマでしかないのだろうが、ある意味でそれらも宗教画や仏画と捉えても良いのではないだろうか。もちろんそれは手塚の仏教理解と解釈に基づくものではあるが、現在に伝わるさまざまな仏教美術だって作者の理解と解釈がなければ成立しないのだから同じことだと思う。 展覧会としては、実は結構小振りなものだったので「あれ、もう終わり?」という感覚は否めないが、その一方で手塚の<ブッダ>を読んでみたくはなった。
今日耳にした音楽の記録。
・ドビュッシー/12の練習曲 エマール(p)<04> ・シベリウス/交響曲第5番 変ホ長調 作品82 バーンスタイン/ニューヨークpo<61> ・ショスタコーヴィチ/交響曲第10番 ホ短調 作品93 カラヤン/ベルリンpo<81> ・プロコフィエフ/交響曲第2番 ニ短調 作品40 ロジェストヴェンスキー/モスクワ放送so ・マイルス・デイヴィス/Miles in Berlin<64> ・バルトーク/弦楽四重奏曲第3番 Sz.85 ジュリアードsq<63>
マーラーの交響曲第10番は大好きな作品だ。<マーラー 君に捧げるアダージョ>はその第1楽章にあたるアダージョを使った映画らしい。ならば観に行かねばなるまい。
そう思って出かけてみた。 結論から言えば、失敗だった。 確かに第10番のアダージョの音楽は映画の随所で現れる。だが、見たところ、マーラーが第10番を手がけたいきさつであったり、楽譜の中に記されたアルマに向けての言葉の数々については、ほぼ触れられていなかった(オープニングでそれっぽい楽譜が映し出されるがそれだけ)。また、第8交響曲にはいくらか言及があったけれど、第9番や<大地の歌>のことは一言も出てこない。ついでに言えば、マーラーとアルマが結婚して以降の作品については、交響曲第5番のアダージェットを除いて触れられていない。そう思うといくら映画であっても、マーラーを描いたとは言えないだろう。更に言ってしまえば、この映画の邦題に偽りあり、である。 それから、アルマ。最初から最後までアルマに見えなかったのは何故だろう。アルマがマーラーと結婚していたのは21歳から31歳にかけてのはずだが、どうも演じた俳優が年相応に見えなかったのだけれど。それにアルマ自身が奔放であったにせよ、ちょっと描き方がやり過ぎだったように思う。 あと、全体に説明的なのも気になった。マーラーとアルマの周辺に居た人々がさまざまなジャンルの歴史的人物であったことは間違いないのだが、それをわざわざ強調したかったような印象を受ける。登場人物が実はそれほど多くないだけに、尚更そう思えてしまうのである。 ある程度、創作であることを最初に断ってはいるものの、だったらマーラーという実在の人物にこだわらずに描いた方が良かったのではないだろうか。 まあ、とりあえず僕がクラシック音楽好きだから、感想が少々辛口になるのは仕方がないことではあるのだが。
今日耳にした音楽の記録。
・バルトーク/管弦楽のための協奏曲 Sz.116 クーベリック/ボストンso<73> ・ブルックナー/交響曲第0番 ニ短調 インバル/フランクフルト放送so<90> ・プロコフィエフ/チェロと管弦楽のための交響的協奏曲 ホ短調 作品125 ロストロポーヴィチ(vc)コンドラシン/モスクワpo ・ラリー・ヤング/Unity<65>
今日耳にした音楽の記録。
・ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 作品127 ラサールq ・ニールセン/交響曲第3番 ニ短調 作品27 FS.60 バーンスタイン/デンマーク王立o<65> ・マイルス・デイヴィス/Miles Ahead<57> ・アート・ブレイキー/Mosaic<61> ・ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 コロル(vn)グリゴリエヴァ(p)
今日耳にした音楽の記録。
・シューベルト/交響曲第8(9)番 ハ長調 D.944 ミュンシュ/ボストンso<58> ・ジョン・コルトレーン/Ole<61> ・マーラー/交響曲第6番 イ短調 レヴァイン/ロンドンso<77> ・バルトーク/舞踏組曲 Sz.77 ショルティ/シカゴso<81> ・ベートーヴェン/交響曲第3番 変ホ長調 作品55 クレンペラー/フィルハーモニアo<59> ・ブラームス/悲劇的序曲 作品81 クレンペラー/フィルハーモニアo<57>
億劫だった世田谷美術館にようやく行くことにした。何年ぶりかのことである。
NHKの<新日曜美術館>で何週か前に特集で放送していたのを観たので、何となく内容は分かってはいた。 会場に入ると、どこかの寺か神社の収蔵庫かと思う。 会場を歩きながら思ったのは、本当ならそれぞれの出所の現地まで行ってみるのが正しいのだろう、ということである。白洲正子はそうしてきて、そして数々の著作をものにした訳だ。それを逆に一堂に会することで彼女の仕事をザッと眺めようというのが今回の主旨にあたるはずだ。だが、展示品の傍に彼女が書いた文章が少し添えられては居るのだけれど、それだけで彼女の著作や考えを理解出来るとも思えない。展示品を集めた時に「白洲正子の世界」が浮かび上がってきているかどうか。少なくとも僕には、正直、欲張り過ぎた会にも思えた。 それでも、テレビでも紹介された焼け仏(焼損仏像残闕)は圧倒的だった。もとは千手観音立像だったはずなのだが、焼けて黒ずんだ木の塊になっているものだ。ほとんど現代美術のオブジェのような雰囲気すら醸し出している。しかし、その意味ではこれが「ただの自然に転がっている木の塊」とは明らかに違う、と思わせること自体に存在の意味があるようにも思える。観音像と知ってみれば、そこに元の姿を想起させる悲しみにも似た感情が起こるのかもしれない。だが、それと知らずに観た方が、存在そのものの主張の強さをストレートに観る者に感じさせる。そこには時空を越えた神々しさがあると言うと大げさなのかもしれないけれど。 また久しぶりに白洲正子の本を読みたくなってきた。
本当は<白洲正子展>に行こうと思っていた。しかし、世田谷美術館というのが僕にはちょっと億劫である。新宿のチケットショップを覗いてから改めて考えることにした。
結果、国立新美術館でやっている<シュルレアリスム展>に行く。<白洲展>はまた今度。 人の出入りを見ていると、どうやらここも岡本太郎展には負けているのではないか、と思う。ただそれも分かるような気がする。同じ20世紀の美術であっても、人を惹き付ける明るさというのがこちらには感じられないのである。たとえ、両方とも同じように「訳が分からない」ものであったとしても、である。<岡本展>の方には「分からない」を通り越したエネルギーやポップさが溢れていた。 いや、今日、会場に入って考えたのはまさに「分かる」とは何か、ということだった。僕はひとつひとつの作品を丁寧に観ることは早々に諦めて、それを考えながら廻った。まず上手下手ではない。上手いとか下手だとかいうのは、描かれたものが何であるか理解出来て、かつ実物がそこにあるかのように思えるかどうか、が基準となる。今日観た作品はその基準の対象外ばかりである。しかも、仮に描かれているひとつひとつのものが「分かった」としても、それらの組合せから生じている「何か」を理解出来るか、という次の問題が現れる。 まして、完全に抽象的な状態の画面と、象徴的とも言える題名にぶち当たると、途方に暮れてしまう場合だってある。これは発表された当時でも同じことではなかったか。ただ、描いた本人も作品が自分の意図を「正しく」反映しているかどうか知っていたかどうか。 こう書いてくると、シュルレアリスム絵画を否定的に捉えているように思われるかもしれないが、そうではない。描かれる、あるいは表現されるテーマやものが日常生活の中では意識され得ない部分に踏み込んだことで、イメージの世界が一気に広がったことの意味は非常に大きいと思う。そして作者の意図が絶対的なものでなくなった分だけ、解釈も多義的になる。その多義性こそが「分かる/分からない」の源になるのだと思う。 岡本太郎じゃないけれど「何だこれは!」と思わせる、感じさせることもまた、芸術の効用と言っても良いだろう。
朝イチで病院に行く。9時30分には終了して、表参道に居る。何処かに展開するにも少し早いので行き先を考える。午後から横浜方向に行くとして、それまでをどうするか。ひとまず東京駅に出て考えた。
八重洲口に行ってみて思い当たったのはブリヂストン美術館である。東京駅から歩いて行ける距離だ。まだ雨も降り出していないからそこに向かう。興味を覚えない企画だったら困るなあと思っていたら<なぜ、これが傑作なの?>という題名の展覧会である。コレクション展示ではあるようだが、まあ良い。 さすがに先週の岡本太郎展とは違って、客が多くはないので見やすい。 まず「19世紀以前の美術」としてコロー、ドーミエ、ミレー、クールベなどが並ぶ。次の「印象派とポスト印象派1」の部屋ではマネ、モネ、ルノワール。その中ではモネの<黄昏、ヴェネツィア>という作品がいちばん印象に残る。形は色の中に溶け出しているのだが、題名というガイドがあるせいか、ぼんやりと淡い色彩にも関わらず海と空と建物の姿がはっきりと感じられる。光は刻々と移り変わって行くものであることを思えば、モネが切り取った情景は瞬時のものであったに違いない。だが、こうしてカンバスに定着されることでその瞬間は特別な瞬間になる。 次の「印象派とポスト印象派2」ではセザンヌの<サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール>が素晴らしい。下手な写実よりも真実の存在感を覚える。美かどうか以上に存在しているか否かなのである。 マティスやルオーについては割愛。本当は好きな作家だが、今日はあまり気分じゃなかった。 ピカソも7点並んでいる。<腕を組んですわるサルタンバンク>のキャプションを読むと、かつてはウラディミール・ホロヴィッツが所有していたのだそうだ。 そして「抽象絵画の展開1」。カンディンスキー、モンドリアンなどがあるのだけれど、何と言ってもクレーだ。ここには<島>という作品がある。周りを見れば直ぐ分かることだが、その部屋の中で圧倒的に静なのである。主張が無い訳ではないが、少なくとも観る者に過度な働きかけをしようという意図を感じない。ただ、美しく、そこに、詩が在る。 音声ガイドを使わなかったから分からないのだが、解説コメントも限られた数の作品にだけ付けられているから、あまり普通の展覧会と変わらない。
竹橋の国立近代美術館で<岡本太郎展>を。
ドラマがあったりやたらに展覧会のポスターが目立つなあと思ったら、生誕100年だからだった。僕が子供の頃に既に「芸術は爆発だ!」というフレーズは知っていたし、本人が出演したテレビ番組も何となくは見ており、単純に変わったオッさんだなあと思っていた。 岡本太郎の作品を本気で観たのは、多分、熊本市現代美術館が開館した頃にやった展覧会だった。その流れで彼の著作、例えば<今日の芸術>とかを読んだ。彼が原始美術や民族文化からも影響を受けたのを知ったのもこの頃だったと思う。 という状態から年月が流れて本日。 それこそ岡本敏子のおかげもあるのだろうが、展覧会場は人でごったがえしていた。会場に入ると、まずいきなりアヤシい雰囲気である。彼の立体造形作品がずらりと並ぶ。何か1960〜70年代にタイムスリップしたような印象を受けた。ちょうど僕が子供の頃に見た特撮系のテレビ番組でこんな感じの「もの」を見ていたような気がする。製作年代を見ると1960年代から90年にまで及んでいるのだが、年代差は全く感じなかった。とにかく最初の部屋のインパクトは大きかった。 その後はある程度オーソドックスな流れが続く。単純にシュールなものもあるが、シュールを超えた象徴であり抽象である作品が並ぶ。原色の持つエネルギーが線や面、あるいはかたちとなることで更に増幅される。どぎつくもある色合いではあっても、それ自体が狙いではないように思える。 岡本太郎という人は相当に速筆だったのだろう。そう感じたのは「岡本太郎との対決」と題された部屋である。何十作あるのか分からないが、ひたすら眼が描かれ続けている。同工異曲とも言える。しかし、それを一貫した姿勢とも考え方の反映と言うことも出来る。思想を視覚的表現にするのが美術家の仕事であることを思えば、岡本のこの眼の作品達は集められることで意味を表すのではないか。 というようなことを考えたのだが、展覧会自体は意外にあっさりしたものだった。ような気がする。 さて、展覧会のグッズを扱うショップは大繁盛している。僕も何かとは思ったが、もうひとつ。しかし会場の外にあるガチャガチャにはやられた。ガチャガチャの中に岡本太郎の立体作品のミニチュアが入っているのだ。全8種。僕は2回やって<太陽の顔のマケット>と<坐ることを拒否する椅子>が出た。ガチャガチャなんて30年ぶりぐらいだが、正直、楽しい。
ジョージ・ラッセルがブームである。マイブームとして。
前に<Ezz-Thetic>のことを書いたけれど、その後<The George Russell Sextet at the Five Spot>というアルバムを中古の輸入盤で入手した。どうも少なくとも今は日本盤が無いらしい。CDはVerveで出ているが、オリジナルはDeccaで、1960年の録音らしい。今日は詳細を書かないけれどこれは素晴らしい。<EZZ-THETICS>や<NEW YORK, N.Y.>ばかりが有名なのは勿体ないことだ。 という出会いがマイブームを持続させるきっかけである。 さて、<NEW YORK, N.Y.>が1959年、<THE JAZZ WORKSHOP>が57年の発表なのだが、更にそれよりも前のラッセルが何をしていたかが気になった。単独曲としての<Ezz-Thetic>は前にも書いたとおり、リー・コーニッツがマイルス・デイヴィスと録音しており、それが1951年。ではそれ以前は。調べてみるとこれがなかなか興味深い。 彼のキャリアで最初に現れるのはディジー・ガレスピーのビッグ・バンドである。1947年、ラッセルは<Cubano-Be><Cubana-Bop>という作品をガレスピー楽団に提供している。これはひとまずNaxos Music Libraryで聴くことが出来る。スタン・ケントンあたりの音楽よりも、更に新しかったのではないだろうか。2曲ともラテン風味が含まれているのだが、僕は特に<Cubana-Bop>の方がカッコ良く思える。バンド・メンバーで「クバーノ・ビ〜、クバーノ・バップ!」とリズミカルに唱和した後に、ワイルドにブラスが鳴り響く。エンディングに向かって高揚し続けるさまは圧巻である。最後はラテン風味すらも吹っ飛ぶ盛り上がり。 1949年、ラッセルはバディ・デフランコのバンドのために<A Bird In Igor's Yard>という曲を書いている。直訳すれば「イゴールの庭に居る鳥」ということになるのだが、これは多分イゴール・ストラヴィンスキーとBird即ちチャーリー・パーカーの音楽の双方からの影響を受けていることをタイトルでも示したのだろうと思う。同じセッションで録音された他のデフランコ楽団の演奏と比べると、異常に突出したノリである。どこがストラヴィンスキーなのかは、譜面を見ても分からないのかもしれないが、ただクラシックのオーケストラを扱うような書き方であることは確かだ。 因みに当時のプログレッシヴ・ジャズのアーティスト達からすると、進んだクラシックと言えばストラヴィンスキーの音楽を意味していたようで、ボイド・レイバーンというバンド・リーダーの作品に<Boyd Meets Stravisnky>という曲がある。まあ今の耳からするとやはり「何処が?」と思う音楽ではあるのだが、スウィングやラテンとは明らかに違うエネルギーがあるとは思う。ついでに言えば、ラッセルと比べると、ラッセルがいかにハードな音楽を書いたかがよく分かる。
チケットは随分前に用意していたのだけれどなかなか足を運べなかったのだが、なんとか最終日に行くことが出来た。
ポスターはたまたま街中で見かければ何ということも無い広告でしかない(それはそれで意味があるが)ように思うのだが、面と向かってみると疑いもなく芸術作品である場合が多い。古くはロートレックの作品がそうだ。 で、今日の展覧会はそのポスター芸術の中でも更にタイポグラフィをテーマとしたものである。相当に端折った言い方をすれば、文字のデザインのことだと思えば良い。 ポスターというと写真やイラストの方が幅を利かせそうだが、観る者に何であるかを直接的に伝えようとするなら文字を効果的に使う方法の方が良い場合もある。文字は言葉を二次元に定着させる記号というだけでなく、視覚的効果=形を持っているのだからそれ自体が絵やイラストだと思っても良いだろう。とは言え、文字は読めなければ意味が無くなる。だからデフォルメには限界があるということにはなるが、実際にはフォントの多さを見ても分かるように多彩な表現が可能なはずだ。 出品リストを忘れたので正確なタイトルを思い出せないが、第1次世界大戦中のドイツで出された「戦時公債の発売がいつから」と文字で書かれただけのポスターがなんとデザイン的だっただろう。ヒッチコックの<めまい>を思い出させる背景で「オカルティズム」についての大学の公開講座開催案内をしているポスターも面白かった。他にも鉄筋コンクリートの100年に関する展示会をはじめ、産業系のポスターにも面白いものがいろいろとあった。まあ、ここら辺まで来ると、文字とデザインのコラボレーションと言った方が良いのだろうけれど、それでも文字にもデザイン性が含まれていないと無理矢理な印象を与えてしまうのだろう。 最近は街を歩くと展覧会のポスターですらもつまらないものが多い。それに液晶の表示板ではベタな動画広告が流れる。想像力をかき立てさせてもくれないし、そもそも目すらひかないのだから、広告としての役割も欠けているということになる。商品やサービスなどの直接的な(ある種、押しつけ的な)表現から、一歩下がったイメージの世界で勝負した方が却って目立つんじゃないかとも思ったりする。 そんなことを考えながら、やや集中力を欠いた状態で眺めた展覧会。
<きつね>。
ストラヴィンスキーの作品の中でも好きな方の部類に属する。 <兵士の物語>から抒情性を完全に抜き取って、<結婚>のような土俗性をいくらか足したような感じ。土俗性は単にツィンバロンがアンサンブルの中に加わっているからだけではなく、声楽パートに見られる節回しであったり、どさ回りの楽隊を思わせるようなブラスの響きやリズムから感じられることだ。 明らかに大劇場向けの<火の鳥><ペトルーシュカ><春の祭典>とは違って、<きつね>はもっと舞台と客席とが近い空間を想定して書かれたのではないかと思う。作曲されたのが大規模公演を打ちにくかった第1次世界大戦中だったということもあるだろうが、それ以上にクラシック音楽の世界にヴォードヴィル的な要素を持ち込もうとする試みだったようにも思える。その意味で、芸術性と大衆性の両方を満足させようとした欲張りな作品だったと言えなくもない。 歌劇でもなくバレエでもない、音楽をメインとした舞台作品。これは発表当時新しかった表現のはずで、ドビュッシーやラヴェルのような人々からは出てこないノリだった。ストラヴィンスキーは音楽家であり舞台人でもあったのだ。
一時期、ウォルトンの音楽ばかりを聴いていた。
きっかけは交響曲第1番とヴィオラ協奏曲だった。前者はその時期にいろいろな指揮者のCDを漁って、10種以上は入手したはずだ。また、後者のことを当時の職場で出していた情報紙の僕担当のコーナーで書いたら、館長(「あのお方」である)から良くも悪くも面白がられたものである。 ピリッとしたモダンさとロマンティックな味わいとがいい感じの音楽、まずはそう言っておけば良いだろうか。 しかし、ウォルトンの作曲家としてのデビューはもっと鮮烈だった。 <ファサード>という組曲である。1923年だから彼が21歳の年の作品。小アンサンブルに2人のナレーターが加わる。ナレーターというとちょっと違うかもしれない。ヴォーカルとも違う。歌ってはいないのだが、何となく詩を読んでいるようでもあるので、解説本を見たら「朗読者」と書いてある。分からないではないが、それもまだ違う気がする。 <ファサード>で使われた詩はイーディス・シットウェルによるナンセンスな内容のものだった。単に韻を踏むことに着目していたり、語感であったり、というところだろう。ダダイスティックなものだったのかもしれない。 そんな詩に付けたウォルトンの音楽は軽い。軽妙と言うより、シニカルな風でもある。で、話を戻してナレーター、朗読者の件。彼らは音楽の流れに乗っかって詩を読む。そこで思い出すのは当世のラップである。韻を踏んでリズミカルに詩を語り歌うのはラッパーではないか。まあ、少々大げさに言えば、ではあるが。 さて、そんな<ファサード>の位置付けを考えてみると、実験的にも思えてくる。捉えようによってはシェーンベルクの<月に憑かれたピエロ>よりも逝っちゃっているかもしれない。シュプレヒシュティンメのおどろおどろしさはいかにも「現代音楽」風ではあるが、実は<ファサード>のラップまがいの方がより「現代的」に思えても不思議ではない。ポップさを突き詰めていって出来た「どポップ」はれっきとした実験的表現だと僕は思う。
仕事帰り。気分が乗らないままCDショップを覗いてみる。
案の定、つまらない。 と思っていたら驚くべきCDが出ていた(最近は<レコ芸>の広告すら見ないので)。 それはマーラーの交響曲第10番のクック版が初めて世に出た時のBBC放送の番組などをまとめたディスクである。3枚組で、最初にデリック・クックがピアノ演奏(彼自身の)とオケの演奏(ベルトルド・ゴールドシュミット/フィルハーモニア管)を交えながらトークをしたもので、2枚めに未だ完成に至っていない状態での演奏、そして最後に1964年にプロムスでゴールドシュミットとロンドンsoによって初演されたクック版第1稿の全曲演奏という内容。 決してお手軽な値段じゃないけれど、購入。 マーラーの10番は僕にとってはとても大事な曲のひとつなので。 確かにマーラー自身が完成させた作品ではないから、他の10曲(<大地の歌>を入れて)の交響曲と同列視すべきではないという考え方もあるだろう。それはそれで理解出来る。 しかし、たとえそれが完全にマーラーのものでないにせよ、感動的なまでの絶望というものが音楽で表現されるとこうなる、というひとつの例として存在することは大きな意味を持っていると僕は思う。それに、作曲家の名前そのものよりも、それ自体が優れた音楽かどうか(少なくとも自分自身にとって)の方が重要ではないか。作曲家の名前が名作であることを担保している例は沢山あるけれど、本来基礎に置くべきは作品の方だろう。平たく言えば、たとえ「詠み人知らず」でも良いものは良いのである。 ところで改めて思うのは、BBCのスタッフの凄さ。デリック・クックはこの放送の時点ではBBCを離れていたらしいが、長くBBCの音楽部門に在籍していたのだ。ブルックナーとニールセンの専門家で作曲家でもあったロバート・シンプソンもBBCに在籍していた(僕は彼のいくつかの交響曲が好きだ)。エルガーの未完成だった交響曲第3番を完成させてしまったのもBBC絡みだったはずだ。
<春の祭典>について。
この曲が凄いのは、もう初演から100年ばかり経とうかというのに、未だに前衛的な佇まいを聴き手に見せることである。じゃあ、そのどこが? 全編を覆い尽くす程の不協和な響きはもちろん「ゲンダイ音楽」的ではある。また、その響きを表すための巨大な管弦楽と無遠慮な打楽器。 だがそれら以上に重要なのはリズムだろう。変拍子のオンパレードであり、安定した間合いを聴き手にはなかなか感じさせない。たとえ2拍子であっても、アクセントの位置を頭に置かないことで拍節感を奪う。更にポリリズム。何パターンかのリズムが同時に奏される、というのはクラシック音楽では新しい語法だったはずだ。 <火の鳥>に続いて<ペトルーシュカ>が世に出た時、それは多少の違和感があったにせよ好意的に迎えられている。<ペトルーシュカ>には複調やポリリズムの箇所が含まれているけれど、それらはまだ部分的だったし、全体的に明快さの方が勝った音楽だから聴衆にとって難解過ぎたということは無かったのではないだろうか。 だが<ペトルーシュカ>から<春の祭典>へのストラヴィンスキーの音楽の進展は多くの聴衆の想像を完全に大きく超えるものだったろうし、予想外も甚だしかった。そうでなければ初演時にあれだけのスキャンダルは起きない。もっとも、その問題については視覚面での衝撃ももう片方には存在している。それはニジンスキーの振付けである。およそバレエとは思えない不自然な動きに対して、聴衆いや観客が否定的な反応を露にしたのだ。<ペトルーシュカ>でいくらか示されていた土俗性が今度はストレートに題材として、音楽として、振付けや衣裳として表現されたのである。しかもそれらは愛すべきエキゾチックなものではなくて、野蛮で攻撃的な性格の強い表現として捉えられたのではないか。 ストラヴィンスキーにしてみれば「新しさ」に対しての自覚はあっただろうが、秩序の破壊だとか新しい美学の提示とまでは考えていなかったように思える。もし彼が「新美学」を打ち立てる意志があったなら、この路線の作品をもっと書いていたはずだ。<結婚>は一応<春の祭典>の路線にも繋がる作品と言えなくもないだろうけれど、その土俗性は素朴の美に昇華されているように僕には感じられる。 しかし、ストラヴィンスキーの自覚以上に<春の祭典>は大きなインパクトをもって受け止められたし、今でもそれはそんなに変わってはいないだろう。ただ、もちろんこの作品の革新性の多くは攻撃性の強い表現に基づくものではあろうが、一方で対照的に極端なまでに繊細な部分があったからこそ、ということも僕たちは意識しなければならない。第1部の序奏や第2部の序奏と<乙女の神秘的な踊り>辺りの音楽について、僕は本当に美しいと思う。ドビュッシー的なものすら覚える。例えば第2部の序奏の中で、ミュートを付けた2本のトランペットだけがpで吹くフレーズはどうだろう。5拍子や6拍子のたった1小節のフレーズが何度も繰り返される。単純だが妖しささえ漂うフレーズである。僕の<春の祭典>の愛聴盤はピエール・ブーレーズがフランス国立放送oを振ったもので、その後2回のブーレーズの録音は最初のもの以上のインパクトは無いと思っている。しかし、DG盤を初めて聴いた時、前述した繊細さをビックリするくらいに感じることが出来た。その時初めて<春の祭典>の本当の素晴らしさを知ったような気がする。 もちろん、これは聴く側の意識の持ちようひとつではあるのだが、どうしてもダイナミズムを先に期待してしまうのである、<春の祭典>という作品に。だが本当にポリリズミックで野蛮な作品をストレス発散的に聴くのであれば、レブエルタスの<センセマヤ>を聴いた方が良い。まあ、あれはあれで僕は大好きな作品なのだが。
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